土木作品の評価は、写真や説明書だけでは行えない。現場に出向き、あらゆる利用者の視点で対象を確認し、空間や使われ方を体験しなければ自信が持てない。また、季節や時間、天候や場の雰囲気によっても印象は変わる。この部分は、評価する側の経験や感性で埋めるしかない。短い期間で複数作品の視察時間を確保するのは大変であったが、充実した楽しい時間と良き仲間を得た。感謝。
今年の審査に際して考えたことは、“デザイン評価は、視察段階の姿を切り取って行うことでよいか?”であった。例えば「とおり町 Street Garden」では、街に活気を呼び込んだ取り組みとその成果は大いに評価するが、その手段である植栽やワイヤーロープの“永続性を心配する”必要はないか。或いは手段は変化しつつも賑わいが継続する場合、“授賞は作品ではなく取り組みに対して、時を経て与える”方が相応しくないか。例えば「内海ダム」では、半世紀以上ロックフィルダムの落ち着いた姿に慣れた近隣住民にとって、新たなコンクリートダムはいずれも巨大に感じると言った“過去との比較”は無視できるのか。或いは2/3範囲に盛土がなかった場合の姿を想定し比べれば、明らかに現在の姿が良いであろうと言う“たらればとの比較”を行ってもよいのか。例えば、いつか「西仲橋」のデザインレベルが都市のど真ん中の小規模橋梁で実現し易くなれば、さぞ美しい都市になると思う“私の期待”を評価に込めていないか、等々。
今回私は、地域の歴史や文化、時間情報や事業経緯、関係者の思いなど、作品の背景情報を出来るだけ収集した上で、冷静に「現在の姿」を評価した。今回で評価任務を終了するが、土木作品に出合う旅は今後も続ける。気楽な批評の旅になるだろう。
今年度の審査では、デザインの評価軸あるいは評価の土俵の見極めが議論となった。「土木のデザイン賞は異種格闘技」とは、何代か前の審査委員長の言葉と記憶するが、同じリングに乗せてという以前に、そもそも戦いの土俵が等しくない。あるいはすでに評価されている作品を「土木のデザイン」としてどう捉えるか。こうした議論が、また一歩「土木の」、あるいは「デザインの」概念を豊かにしていく。以下に今年の選考から浮かび上がってきた論点を振り返ってみたい。
前提条件へのチャレンジ
デザインはある設計条件の下での創造性として現れる。しかしその条件自体を転換することで、通常では達成できない優れたかたちが創造される。最優秀賞のアザメの瀬と内海ダムがその代表である。治水上必要な高さの堤防を築けば、この場所はどうなるのか。必要とされる規模のダム堤体をここに挿入すれば、その見え方はどうなるのか。初期条件の下での解は、たとえそこで最大限工夫したとしても、優れた環境や風景の創造には至らない。ならば条件そのものを変えるチャレンジをしよう。新たな条件の下で、求められる性能を満たす解を見つけよう。このアプローチは、新たな技術的検討と周囲の説得を必然的に要する。その壁を乗り越え、諦めない努力が続いた結果、見事な解へ到達した。しかもその結果は驚くほどに自然である。この仕事を成し遂げるのに要した苦労は、背景を知る人にしか感じられない。それは到達した解の有する高次の合理性による。土木デザインの原点と思う。
定石を諦めずに丁寧に
人の歩く道、人の作る形の構成。何千年前からその原理原則はそう変わらない。古典的な事例に蓄積されてきたデザインの知恵は、現代の空間や構造物にも必要である。しかしデザインの定石を素直に適用することは、実に難しい。それを諦めず、丁寧に、どこまでもやり抜くこと。その場所への適用のかたちを洗練させていくこと。その結果は、規模の大小によらずデザインのある到達点に至る。神門通り、新佐奈川橋、西仲橋、嘉瀬川ダムは古典に則った優れたかたちをつくりだした。このアプローチは常に公共空間の、土木構造物の規範となりえる。奨励賞となった作品もその定石を外していない。
「こと」と「意識」への投石
上記の2つのアプローチが、自然の摂理、人の行動の秩序、これらを基本にロングライフな新たな人工環境を作っていくものであるとすれは、空間にある波紋を落とし、出来事や意識に新たな刺激となる要素を生み出していく。そうした力もデザインは有する。十勝千年の森、グランルーフ、とおり町Street Gardenはこうした価値から評価されたといえよう。それぞれの場所に独創的な形が挿入されることで、空間が蘇生し、人々にメッセージを投げかける。そこに生まれるエモーショナルな何かが、次の何かに繋がっていく。これも環境デザインに必要な力である。他の授賞作品にもこうした成果を結果的に見出すことができる。
デザインは結果がすべて
今年の議論からはこうしたデザインのアプローチを学んだように思う。加えて、デザインは結果がすべてであるという、残酷な事実を認めざるをえないことも。2名以上が現地を確認するとはいえ、それはやはりその時限りの状態を見ての評価となる。それはまたデザイナーの手を離れた後の変化が加わった状態でもある。しかし、デザインはやはり体験した人、時の評価の集積でしかない。説明なしに人の心に響くか否かで評価される。已む無く選外とした作品を前に我々審査委員が再認した現実である。
このように今年もまた、審査を通じて多くのことを学んだ。応募作品に注がれた膨大なエネルギーと審査に費やされたエネルギーとが、土木デザインを進め、広げ、無数の人々と生き物のハッピーライフにつながっていくと信じている。