【熊本県上益城郡山都町】
用途 / 農業用水路
白糸台地には、通潤用水に潤され育まれてきた棚田景観が広がる。これらは、国選定の重要文化的景観である。改修対象の「下井手」は、文化的景観を支える生業の基盤施設である同用水の一部を構成する農業用水路である。整備以前、受益者から、老朽化に対する補修と、車両が入れる管理用通路の設置が求められていた。一方、建造以来の形態を始め、生態系、生業との関わりを色濃く体現しており、文化的景観の保全に資する改修が求められた。
通潤用水の特徴は、1855年頃に完成以降、受益者主体の管理組織が当初の原型を保ちつつ、協働による施設管理の調整等に現在も機能していることである。用水は、地域住民にとって協働の場かつ誇りの対象であり、地域紐帯の要といえる。また、下井手にアブラボテを始めとする低平地性の生物種が多数生息していた。山間地でのアブラボテの生息は希少で、緩勾配の用水の建設に伴い安定的な生息場が創出されたためとみられる。歴史と結びついたこの独自の生態系は「用水建設の生き証人」といえる。
整備の方針は『水路の維持管理を容易にして稲作労働を省力化する』、『生物多様性の保全を通じて水路施設に生態系の魅力を上乗せし、共同体の誇りを高める』、『空間利用価値を高め、来訪者を受け入れる』とした。生態学者との協働と、流水作用の観察により、生物の生息環境や侵食危険箇所の動態を具体的に把握し、自然の営力で維持されるよう計画した。新設する人工物は、最低限の規模でまず造り、不足分を見極めて追加する計画により過大な改変を避けた。その規模・形状・素材は現地にあるものを極力用いた。
竣工後、1年経過時点でアブラボテの再生産と生息数増加、生息域拡大の傾向が見られ、また改修前に確認されていない希少なゲンゴロウ類が新たに確認された。このように、用水の生態学的な価値が向上しつつある。
また、棚田イベント開催、高付加価値米販売の検討等、農家が景観を活用して動き始めつつある。
夏の盛りに現地を訪れ、何よりもそもそもの景観に感じ入った。桃源郷とはかくばかりに農が地形を彩っていた。しかし、いざ「モノ」の実見となると、夏草に覆われて踏み分け道すら見つからぬ現場が山間にばらばらと顔を覗かせているだけで、この仕事がいったい何をなし得たのか、にわかには理解できなかったのである。思うに、この景観を景観たらしめているのは農耕である。農耕の継続を担保するためになすべきこと、それは傷んだ水路の補修と、農作業の足となる軽トラックのための道路整備だった。それらの仕事それ自体によってもともとの景観が損なわれることを食い止めた。これこそがなし得たことだと後になって合点した。この仕事を仕事たらしめたのは、本来、率先して応援すべきはずの農業土木系の事業ではなく、教育委員会だったという事実は意味深長だ。文化的景観の制度が整備されていたことはまことに幸運だった。地元の人々が知恵を絞り、議論しあい、協力体制を築いてなし得たこの仕事は、現代におけるアノニマス・デザインの復興といっていい。(齋藤)
9月末、白糸台地の棚田が黄金色に輝いている。複雑に入り組んだ田んぼに水を配分する用水路。地形を読み取る力がすごい。水田を切り開くという開発行為が美しい風景を生む。圧倒される思いがした。
用水路の補修が本事業のメインである。全体を造り替えるのではなく必要なところだけを補修する。素掘り水路がもつ生物の生育機能を維持していくためにコンクリート三面張りにはしない。使用材料は土と石とし、護岸は空石積とする。農業者の負担を軽減するために管理用通路の整備をする。総じてきめ細かい対応がなされており高く評価できる。
ただ、水路の河岸が少し崩れているところや漏水が心配に思える場所が見られた。管理用通路は草が繁茂し維持管理が大変だと感じた。近世の技術思想には学ぶところは大きいが、しかし時代的な限界もある。土系舗装など現代の技術を上手に組み合わせていくことをもう少し考えてもよかったのではないかと思った。(吉村)