岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里地区
集落(津波復興)
2011年の東日本大震災で甚大な津波被害を受けた岩手県大槌町吉里吉里地区の復興まちづくりである。既往最大の明治三陸津波を大きく超えた津波は、昭和三陸の高台再建地をも飲み込んだ。同年9月、碇川新町長が住民主体で復興計画を進める方針を示し、住民協議会が立ち上がる。以降、まちびらきに至る7年間、住民・町役場・設計チーム・コーディネーターが協働し、復興構想立案、集落の骨格プランニング、各空間のデザインに取り組んだ。
復興構想では、集落の将来を見据え大切にすべきことを議論し、「これからも同じ場所に皆で住み続けること」、「海とのつながりを保ち暮らすこと」を大方針とした。すなわち、バラバラに高台移転は行わず、従前居住地のうち被災を免れた山裾部に接するよう再建エリアを設け、さらに既存集落内に小さな高台移転地を複数確保することで、まとまって住む集落形状とした。
集落の骨格は、集落の礎を成す大地のデザインと捉え、国道や防潮堤、海岸も含め計画した。集落形状に合わせた国道移設、砂浜保全と海との往来を可能にする防潮堤セットバックが、吉里吉里の復興には不可欠とし協議を重ね、住民の想いを受け止めた三陸国道事務所と県沿岸広域振興局水産部が集落構想を反映した国道・防潮堤を実現した。
集落内には、学校などの高台に向かう複数の道に交差するよう、海に向かう道「海の軸」を設け、海とのつながりと、日常動線と避難路を一致させた街路ネットワークを構築し、海の軸沿いには複数の公共空間を配置した。
空間デザインでは、居場所づくりを重視した。とくに公民館とまちの広場は、地区のコミュニティの核になるよう、使い方に応じ拡張可能で一体的な空間としてデザインし、日常的に住民がふらりと立ち寄る場所になっている。
2011年3月11日の絶望的な光景は、11年間のたゆまぬ住民の努力により、平穏な日常の光景がそこかしこで目に映る、「吉里吉里の風景」へと再生しつつある。
住民との徹底した協議を粘り強く続けながら「海とのつながり」を重視した復興まち・ひとづくりの成果といえる。本地区では当初計画されていた防波堤の法尻ラインをセットバックさせ、砂浜の保全を達成している。
また、集落形状に合わせ、国道45号線の移設と区画整理を遂行し、住宅地の集約と7割を超える再建率を果たした。大規模な造成ではなく、既存集落内に10戸以下の単位で防集団地を分散配置し、集落の再編と新旧住民のコニュニティ醸成にも大きく貢献している。
提案された散歩道「海の軸」には隣接して公民館が建てられ、街区公園の併設によって広場との一体的利用が可能である。実見時にも公民館での活動の盛んな様子とともに、地区内住民の交流の場としていかに愛されているか、館長さんの笑顔からも容易に想像できた。
協議時に活用された「デザインノート」は地区全体の具体的な空間イメージを明瞭にし、住民同士の将来像の共有、国や県といった関係機関との交渉に寄与したことも明らかだろう。住民他との時間をかけた、分かりやすい協議の努力が、吉里吉里地区の結束と共に暮らす風景の再生に繋がったものとして、その功績を讃えたい。(柴田)
過去の明治、昭和の津波の経験から、高台への集団移転をすでに実践していた吉里吉里集落が、今回の津波で被害を受けた。海水浴で賑わう砂浜を残したいという住民の思いを防潮堤のセットバックで実現し、過去の津波を経た復興で生まれたまちの中心を残しつつ、震災後も集落を分散せず山側に移動し、かさ上げして同じ地にコンパクトに暮らすアイディア。これを実現できたのは、地域の営みを尊重しつつ分野を横断するプランニング技術と、コミュニティ活動が盛んな地域力の賜物である。
まちを歩いていると、高台にある小学校や神社、駅周辺など以前のままの風景も残っており、災害公営住宅や防集住戸が数戸単位でまちになじんで配置され、愛されて使われている公民館や公園が中心に位置し、海の軸を超えた砂浜では複数のグループが遊んでいる。一方、海の広場は実現されておらず放置された空間になっていた。海とまちをつなぐ大切な場所なので、ぜひ実現することを願う。
再建された集落は、数メートル嵩上げされた新市街地の感覚はなぜかなく、あたかも以前からあったように風景に溶け込んでいる。ここに次世代の集落をつくる、今回のプランニングの意図を感じた。(泉)