宮崎県日向市美々津地先
河川護岸(防水防御)
耳川の河口部に位置する日向市美々津町の立縫地区。かつては陸上交通、舟運の要衝として栄えた問屋を中心とした商いの町である。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているが、観光化は進んでおらず、町の人々がひっそりと住まう静かな町である。
近年では1997年、2004年、2005年に浸水被害が発生、宮崎県は2007年から耳川河口部防災事業に着手した。当初は堤高を3.3mから5.4mまで高くする計画であったが、住民は段階的整備を選択し、暫定的に3.9mまで高くし将来的に起伏式パラペットを設置することとした。当初設計では、伝建地区の周辺要素である自然石護岸を覆い隠すように河川側に石張り護岸を新設する計画であった。しかしながら歴史的な景観を損なうことを危惧した出口教授は、2010年に各分野の専門家らを招集し「耳川河口部景観検討委員会」を立ち上げ、計画の全面的な見直しを行なった。
上流側護岸は既設の石積み護岸を取り崩し、石積み専門集団である穴太衆の指導を受けながら伝統的な空石積みとしている。構造的な強度は背後の重力式護岸で担保している。下流側護岸は建築的な技法を取り入れながら陰影を活かした重力式コンクリート護岸のデザインを行なった。
護岸整備に伴い、陸閘、門柱、照明設備、玉垣風擁壁、人止め柵、背後地の広場など歴史的な街並みに調和するようなトータルデザインを行った。
本プロジェクトの特徴は設計・デザインから施工まで、MKD会議が一貫して意匠監理を行ったことである。工事着工から竣工まで4年を要したが、その間コンサルタント業務として事業全体の景観マネジメントを行い、護岸付帯施設や背後地の広場などのトータルデザインを行った。
また、本プロジェクトを進めるにあたり、色々な形で住民に参画して頂いた。検討協議会の他、広場整備、ワークショップやモックアップによるデザイン検証の社会実験や意識アンケートなどである。護岸の足下部の小石装飾は美々津の園児たちが手伝ってくれた。
このプロジェクトにより砂防機能が向上するだけでなく、地域発展の契機になることを願う。
水辺は人の営みと自然とが接する境界である。自然の猛威に晒される最前線でありながら、人間が川や海から恵を享受するために必要な空間でもある。神武天皇東征の地として知られ、明治期までは陸上交通と海上交通の結節点として繁栄、現在でも歴史的価値の高い街並みが続く美々津町。本作品は美々津町河口に建設された護岸や陸閘である。立磐神社脇の玉垣、修復した石積護岸の出来栄えは秀逸であり、下流の陸閘のデザインも申し分ない。しかし、何よりも評価すべきは5.4mとして計画すべき護岸高さを、地域での討議を重ね、暫定的に3.9mとしたところにある。自然の猛威への備えは大事だが、対象とする計画規模が大きくなれば構造物は長大になり、デザイン上の様々な工夫も意味を失う。そして、人々と海との繋がりは希薄となり、美々津の町の魅力は低下してしまう。陸閘下流に続くコンクリート擁壁や階段施設については評価が分かれた。しかし、本作品の価値は、このような細部のデザインの評価を越えたところにあると考える。自然の猛威から地域を守り、自然からの恵みを享受する、このバランスが全てのデザインの礎になっている。その決断に拍手を送りたい。(萱場)
閘門ゲートを抜けて岸壁に車を停める。石積みの護岸は降り続ける雨でさらに魅力が際立っていた。当初設計では堤高は今より1.5mも高く、さらに昔からある自然石護岸を覆い尽くすように川側に新設されようとしていたらしい。もし、今できている方針での整備にならなかったら?昔の写真と比較してみると、この仕事に合点が行く。防災の観点と景観の保全との微妙なバランスの取り方、段階整備を選択した住民の強い意思、そしてそれを実現させたチームの力がこの仕事の妙である。
コンクリートの堤体部分への地域の町割りが持つスケールの採用や地域特産の杉材を型枠に使うなど土地に根ざしたデザイン、また、堤体の屈曲部の階段施設/堤体アンカーのデザインも秀逸である。深い目地や階段の深い蹴込みは自然の力に対抗する力強さ持っている。侵入防止柵も乗り越えにくく、潜れないという機能から生まれたデザインであった。 護岸整備に伴い整備された後背のステージや照明、ゲートなどを含めるトータルで質の高いデザインは治水機能を高めただけではない。この堤体は立縫地区にとって、町と川を繋ぐことを成し遂げ、耳川側が決して裏側ではないことを示す重要な要素なのである。(吉村)
※掲載写真撮影者は左から1・2・4・5・6が©Shigeo Ogawa