【福井県福井市】
用途 / 洪水被害の軽減・名所づくり
一乗谷朝倉氏遺跡は、戦国時代の城下町の原形がほぼ完全に保存された特異な遺跡であり、国の特別史跡に指定され、福井県・福井市により遺跡の発掘や武家屋敷の復元など、史跡公園として整備が進められている。ここを貫流する一乗谷川の改修を史跡公園の整備と一体的に行うことで、安全で魅力的な名所づくりを目指した。全体整備計画の策定にあたり、文化財関係者からは一級文化財の慎重な保全や存分の活用、地元住民からは昔のような蛍の舞う里川の再生が求められ、これらの意見が整備方針に盛り込まれた。
本事業では、史跡の核である領主館と復元された武家屋敷に挟まれた史跡公園の枢要部を対象に、重点的・先行的に整備を行った。発掘された文化財との景観上の配慮・調整、また、蛍の棲める川としての自然再生に同時に取り組んだ。
遺跡発掘調査の結果、一乗谷川を領主館の外濠として利用したと思われる石垣が出現した。このため、急遽設計を見直し、堤防法線を館側に後退させるとともに出土した石垣を現代の護岸として活用した。また、史跡公有地を河川敷として利用することで、緩い法面を確保できたため、構造物を作らずに現地の表土を撒き出し、現存植生の回復を図った。
2004年7月、本流域は記録上最大の豪雨に襲われ、甚大な洪水被害を受けたが、本地区では一乗谷川の改修効果により、被害は軽微であった。滑らかな河川法線の採用と頑丈な自然石護岸が功を奏し、河川構造物や橋梁も全く損傷を受けなかった。整備後20年近く経過した現在、空隙を十分とった石積護岸や野草法面に蛍など地域固有の動植物が再生し、木材が適度に色褪せ、懐かしい風景・風土に磨きがかかっている。
一乗谷は戦国大名朝倉氏が築いた城下町があったところで、特別史跡に指定されている。10年ほど前、一度訪れたことがある。そのときはあまりいい印象を抱かなかった。だが、今回改めて訪れてこの空間はいいなと思った。まず川の流れが元気である。そして流れの脇は水草に覆われ自然である。それは川底の幅が広い、つまり川の自由度が高いということを意味する。当時、多自然川づくりというと2 割勾配の緩傾斜護岸が花盛り。川幅と法面は広いが川底が極端に狭い。川にとって自由度はゼロ。何年経っても自然的な流れは回復しない。今では、護岸を立てて川底の幅を広く取るという方針が示されているが、20年前これを選択したのは賢明であった。川を活かす。これが川のデザインの基本である。石組みの力強さと柔らかさ。10年前訪れたとき、たぶん石積護岸が目立っていたんだと思う。
今は石組みの目地から草が顔を出し、水際の植生や護岸天端法面の草地が河岸に柔らかい表情を与えている。石組みの目地を深目地とし、川底や護岸天端にスペース的なゆとりを持たせたこと、それが今に生きている。この石積護岸が史跡の石積と比べてどうか、(審査のため)やや意地悪く周辺を見て回った。空石積と練石積の違いはあるが、石のサイズや積み方を見る限り違和感はない。発掘調査で出現した戦国時代の石垣を利用して河道法線を変更するといった柔軟な対応、石積階段や護岸の天端処理など抑制の効いた配慮がうかがえる。時を経て味わいが増す空間。素晴らしい。(吉村)
戦国大名朝倉氏の築いた雅やかな城下町でありながら、信長に攻め滅ぼされ灰燼に帰した悲劇の舞台、越前国一乗谷。その名前を聞くたびに縹渺たる昔に実在した中世の館と町並みを思い浮かべてきた。いつかはこの目で見たいと思っていたこの地を、幸運にも本賞の審査で訪れる機会を得た。審査対象は国の特別史跡に指定された朝倉氏遺跡の中央を流れる一乗谷川の河川整備である。車で現地に向かうと、普段見慣れた急勾配の護岸は、進むにつれ石積みに変わり高水敷も広やかになってくる。
やがて重点整備地区にいたると電柱も車両防護柵も無くなり、出土した戦国時代の巨石を再利用した低い野面石積み護岸と、遺構の石垣とが何の違和感もなく連続し、野草法面によって遺跡公園と河川全体が自然に一体化された心地よい風景が広がっている。水面に親しめるように作られた階段部は昔の洗い場を彷彿とさせるし、領主館の濠に水を引き込むための堤外水路の取水処理も秀逸である。ここを訪れた人のなかには「中世の治水技術もすごいものだ」と思う人はいるかもしれないが、これが現代において行われた河川整備だと分かる人はまずいないのではないか。遺跡景観と河川景観の融合という方針は見事に成功したといえるだろう。資料によると多くの伝統工法を活用しながらも、2004年の福井豪雨による激流に耐えたとある。親しみを感じる懐かしい川の風景を創り出しながら、災害にも強いこのデザイン手法を、本賞の最優秀賞受賞を契機として多くの河川整備に広げて行っていただきたい。本当に素晴らしい作品である。(須田)