岡山県岡山市中区今在家地先
旭川放水路(百間川)への適正な分派により、旭川及び百間川沿川の市街地を浸水から守る
旭川放水路(百間川)整備の歴史は江戸時代に始まる。貞享3年(1686年)に岡山藩の郡代・津田永忠により百間川が築造された。目的は旭川の洪水を現在の百間川分流部より分流させ、旭川下流の城下町を洪水から守ることであった。当時の分流部を含めた百間川には「一の荒手」を含め三段にもなる「荒手」が築造され、洪水の勢いを「荒手」で弱め、土砂を沈下させ下流田畑への流出を抑える役割も果たしていた。明治25年の洪水で、最も下流に位置する「三の荒手」が流失したが、当時の「一の荒手」、「二の荒手」とともに放水路の築堤は保存され、長年治水機能を果たしてきた。
昭和40年代より、この放水路を活用した国による大規模河川改修事業が進められ、昭和から平成にかけての河川改修事業の最終段階の百間川分流部改築事業を平成27年1月から令和元年6月にかけて行った。
百間川分流部改築事業の特徴は、以下の「一の荒手」「二の荒手」「背割堤」の構造物と、既に整備済みの今在家河川防災ステーション、ホタル池を含む環境用水路等、分流部内の高水敷でのグラウンド等の利用を含む治水・利水・環境の調和した整備である。
①一の荒手
従来構造では越流断面が不足し計画分派が出来ないこと、また歴史的価値が高いが空石積みのため近年も度々被災していることから、既存施設「亀の甲」を補強し原位置での改修を行った。越流部は構造物の新設となり、既存「亀の甲」との違いを明瞭化するため、石材の色調・形状・積み方を変える工夫をした。
②二の荒手
平成10年の洪水で被災し一部石材が流出したため、現地に残る石材を用いて、低水路部は幅・高さを維持して練り積みで復元した。また、流水の影響が少ない高水敷埋没部は現状保存とした。
③背割堤
現在の基準にあわせて、背割堤全体の嵩上げや天端舗装による補強等行うとともに、歴史的遺構である江戸時代の暗渠や石積みを解体することなく土中に保存するなどの工夫を行った。旭川に面した水際は、自然環境と生物生息に配慮し「捨て石構造」とすると共に、コンクリート護岸は全て覆土し、緩傾斜とすることで景観上も配慮をしている。
広大かつ豊かな自然環境が拡がる分流部の風景の中で 歴史的遺構である“一の荒手”を中心とした構造物をどう整備するかは“百間川分流部改築事業”の中でも特に大きな課題であったと思う。“一の荒手”の整備では、半ば土中にあった“亀の甲”を掘り起こし、個々の石材の位置を記録して解体、緩みのある箇所を修正した上で、石材の位置にもこだわって形状を復元した。“亀の甲羅”のような曲線美が実に美しい。また、新しく築造した亀の甲の土台ともなる本体工は、亀の甲と石材の色相を変えている。そのコントラストは明快であり、新旧構造物の履歴を容易に理解できる。亀の甲と本体工・階段工との接合部分も丁寧に仕上がっていて好感が持てる。ただ、歴史的遺構の復元、自然環境の保全、水辺利用との調和という視点から二の荒手、背割堤等を含む分流部全体を評価することには戸惑いを感じた。今後の維持管理の中で達成していく大きな目標のように感じる。(萱場)
※掲載写真撮影者は全て国土交通省